史跡モニュメント
 加茂歴史の小径

         
        加茂商工会議所では歴史を活かしたまちづくりの取り組みとして、史跡モニュメント「加茂歴史の小経(こみち)」を設置しています。
        モニュメントを巡りながら、加茂の奥深い歴史に触れてみませんか?

 
    
  三国(みくに)街道山通り其の1

 田上および陣ケ峰方面から加茂町へは上条村に入って上条大橋を渡り、現在の三条屋小路を右に曲がって現在の大通りに出る。当時の上条大橋は加茂川に架かる唯一の橋で、加茂町上手(かみて)側の玄関口であった。加茂町は「人馬継立(じんばつぎたて)」の宿駅に指定されており、幕府や諸藩の役人など多くの人や荷物が通行し、また町に宿泊したと言われている。
(㈱マスカガミ前/加茂市若宮町1-1-32)
   皆川邸跡

 慶応四年(1868)五月二十一日、北越戊辰戦争で長岡落城後、長岡藩総督 河井継之助をはじめとする長岡藩や東軍諸藩(会津、米沢、桑名、村上、村松、上山の各藩と旧幕府軍)は加茂が軍事上、重要だと判断し軍勢を加茂に集結させた。その際、河井継之助らが宿陣地としたのが旧加茂町の庄屋皆川邸である。
(上町コミュニティセンター前/加茂市上町5-20
         
  御高札小路(ごこうさつこうじ)

 御高札小路には谷通りに庄屋屋敷と会所があり、藩や町で決まったことを周知するために掲示した御高札場があった。
 北越戊辰戦争で長岡落城後、河井継之助は旧加茂町の皆川邸を宿陣地とし、そののち長岡城の奪還を目指したが、一方の恭順派の長岡藩家老、稲垣平助は御高札小路を抜けたところにあった明田川吉次宅に滞在した。

(雪椿酒造㈱前/加茂市仲町3-14
  三国(みくに)街道山通り其の2

 三国街道は、江戸時代、江戸へ向かう際に使用された越後国内の主要街道の一つである。下越の村上・新発田藩主も参勤交代の路線として、主にこの街道を利用している。当時、大昌寺付近には木戸(関所)があったと言われており、加茂町の南の玄関口として栄えていた。大通りを直角に曲がって大昌寺大門から矢立にかけての道は、拡幅事業が行われた現在でも道幅が他小路より狭く、旧街道の面影を残している。
(㈱浜屋前/加茂市穀町9-1)
         
  古川茂陵(ふるかわもりょう)

 古川茂陵は、寛保二年(1742)青海神社神主 古川之仲(これなか)の長子に生まれ通称を舎人(とねり)といった。二十五歳の時に江戸で学び、その後、京都に遊学した。京都では名声のあった松岡雄淵(ゆうえん)から崎門朱子学(きもんしゅしがく)を学んだ。雄淵は茂陵を一見して奇才なりと激賞したといわれている。京都における茂陵は勤王家と交際し、尊王思想の普及実現に努めていたが、事のなりがたきをさとって郷里に帰り、先業を継承して青海神社の祠官(神主)となった。
(青海神社境内/一ノ鳥居付近)
  亀の噴水
 
 慶応四年(1868)五月二十一日、長岡落城後に長岡藩兵は加茂に集結し、庄屋皆川邸②を宿陣地とした。この噴水は明治四十四年(1911)五月、皆川家の子孫である幾美(きみ)と登与(とよ)が連名で青海(あおみ)神社へ寄進したものである。この亀は青海神社の御祭神である椎根津彦命(しいねつひこのみこと)を乗せ、神武(じんむ)天皇東征の際大和へ導いたと伝えられている。
(青海神社境内/噴水付近)
         
青海神社

 青海郷の総鎮守である青海神社は、青海郷を開拓した青海首(あおみのおびと)一族によって神亀三年(726)に創建され、延暦十三年(794)京都の賀茂別雷(かもわけいかずち)神社と賀茂御祖(かもみおや)神社の分霊を青海神社に遷祀(せんし)したことから、青海郷の地は京都の賀茂神社の神領となった。現在の社殿に再建する際、陶製の壺に納められた「倉持宗吉 菅原氏治承二年六月廿四日」と銘のある経筒が杉の大木の根元から出土した。
(青海神社境内/伊勢両宮付近)
  大昌寺

 戊辰戦争の際、桑名藩兵や旧幕府兵らが宿陣地とした寺で、文書によれば「当町は軍勢四千人余り止宿。当寺は初めより桑名藩の御宿」とある。
 裏山の墓地内には戊辰戦争殉難者(桑名、会津、長岡各藩士)の墓石が七基残っている。また、米沢藩士の雲井龍雄が奥羽越列藩同盟軍の士気を鼓舞するために「討薩ノ檄(とうさつのげき)」を起草した寺院でもある。

(大昌寺前/加茂市松坂町6-3)
         
稲荷神社

 草創の年次は古く、創建は定かではないが、本殿は明治27年(1894)に再建され、農業や商売の神様として崇められている。社務所には幕末の絵師田中文珪が描いた天井画がある他、神壇(しんだん)には鎌倉時代(13~14世紀)に製作されたと思われる半肉彫で鋳銅製の観音菩薩像が安置されている。
(稲荷神社鳥居前/加茂市下条戊618-1)


 
市川邸跡

 旧加茂町の大庄屋、市川邸跡。門柱と板塀の写真は明治中期の市川邸宅。質素な家構えである。幕末から近代にかけ加茂郷一帯の大庄屋・地主である市川家は、豪農・豪商として近隣の経済界に大きな恩恵をもたらした。
(北越銀行加茂支店前/加茂市本町2-1)